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良いときも悪いときも一緒でもある。
悪いときもあれば、良いときもある。
実は良いときも悪いときも同じように、一緒でもあるなぁ、と。
薬というのはよい部分(求めている効果)と悪い部分(副作用)のごちゃ混ぜになったものです。多くの人では良い部分として作用する薬の量が悪い部分として作用する薬の量よりも少ないために、普通の量をのんでも、良い作用が出るはずなのですが、個人差やその他のさまざまな状況で悪い部分として作用する量が良い部分として作用する量と同じであったり、、またはほんのわずかな量でも悪く作用してしまうことがあるのですね。
もし薬を飲まない場合のことを考えると、これも良い部分と悪い部分が一緒におこるわけです。薬を飲まないので、薬に求めるよい効果が期待できないけれど、悪い部分としての副作用が出ないわけです。
頭痛が続くので、頭痛薬を飲んだら、頭痛はよくなったけれど、胃が痛くなった。再び頭痛がしたので、今度は薬を飲まなかったところ、頭痛は良くならなかったけれど、胃の痛いこともなかった、ということでしょうか。
こういうことって、実はあらゆる行為、判断はみな同じなのですよね。
”何かをする”ということはそれによって得られる期待されることもありますが、期待されないことも同時におこります。一方でその”何か”をしないとすると、期待されることもない代わりに、期待されないことも起きない。
たとえば宝くじ。宝くじを買うと、3億円当たるのではないかと期待されますが、はずれることもありますね。買わなければ3億円も当たらないかわりに、はずれを引くこともありませんね。
人の行為というのはみなそうなのだと思います。当たり前ですね。良いことをしたと思ったら、思わぬしっぺがえしを食らったり、一方で何もしないために、良いことをしたという満足もなければ、しっぺ返しも食らうことがない。
良いことと悪いこととは一緒なのだと。
困ったことの第1は自分にとっては時に一方だけが結果として起こりうる。
困ったことの第2は良いと思っていることと悪いと思っていることが共通なはずなのですが、少しあいまいになってきていることです。
困ったことの第3はその上、時間とともにその状況が刻々とかわることもある。
いつもながらの説明不足なのですが、医療の一部をになっていることが、ある意味で、自分の行為ばかりか、社会のあらゆる所作を考えされられてしまっている状況に陥ってしまっている自分がいることに気づいた次第です。
悪い時もあれば、良い時もある。
人間万事塞翁が馬。
夜が明けないことはない。
苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。
七転び八起き。
その通りですね。
悪い時期もあれば、それを凌いでいくうちに良い時期にも遭遇する。
良い時期に慢心して小さなリスクをきちんとしておかなかったために大きな落とし穴にはまってしまうなんてこと、ありますね。
逆に小さなリスクをきちんとしておいたために、大きなリスクを回避できた、ということも、ありますね。
生きているということはこういうことが連綿と続いているのですね。
時にドラスティックなシフトによってそうしたつながりがたたれてしまうこともあるのですが、それでも何とかやっていくのですね。前を向いて。
些細なことですが、着眼大局着手小局!!
ウサギと亀の童話のごとくです。
あんまり調子が良くないときに気分が落ちてしまいがちです。
前を向いて、何とか凌いで、良い状況になるよう強かに。
字:”刻み字”と崩し字
昨日だったか、新聞で崩し字が通用しない学生という話が載っていました。
私の書いた字はご他聞に漏れず、読めない字なのですが、それでも一応は習字10年の歴史からうまれた崩し字の成れの果てなのです。
ところがわが子も含めて、若い人たちは崩し字はほとんど書きません。
一画一画をきちんと書いています。ただしバランスと言うか、字の体裁を持たない字も多く見られます。
こんな字をなんていうのかわかりませんが、丁度彫刻刀で刻んだような字なので”刻み字”としましょう。
刻み字では文章は書けないですね。時間がかかりすぎてしまいます。
でも試験では間違いなし、になります。 試験対策用の字としては一画一画きちんと書いているので、間違いないわけです。
パソコン世代では表記される文字も正確でないことが多いし、ましてや崩し字は出てきませんね。
ここでふと考えたのですが、崩し字なんて教えてもらったり、筆記用具で書いてあるものを読まない限り、出てこないのですね。
これは、今までのコミュニケートの手段と異なる内容で言葉や意味が伝達されていることなのでしょう。
字の画と似た形だけでコミュニケートされているということでしょうか。”似た形”が今までは崩し字という伝統的に受け継がれた形だったが、最近は”刻み字”で、字の画が同じと言うに過ぎないもの、ある意味で正確なのに、伝統的でないもの、という形でつたわっていく。その刻み字の形は受け継がれていないので共有できにくい、個性的な形ということでしょうか。正確であるにも関わらず。
字を通して伝わるべき、字面だけでは伝わらないものもあるような、それが伝統的に連綿と伝わっていないということでしょうか。
なお先ほどの”字面”ですが、ジオモではなくジヅラと読みます。ジメンでもないです。
とはいえ古文書や江戸時代の手紙(時代劇で出てくる)、札(これも水戸黄門で”御用”とか”税金”とか書いてあるのだろう)はまったく読めない私ですから、崩し字や文体も時代を超えたものではなく、自分の生きている時代が長くなってきたということに過ぎないと言うことなのでしょう。
チャンピックス その後 その後
チャンピックスの保険適応は3ヶ月です。そろそろ3ヶ月が過ぎようとしていますが、良好な禁煙率です。
特に他の方の煙がいやになると、ほとんど再喫煙しなくなるようです。
喫煙者の方々!!!是非チャン」ピックスで禁煙の素晴らしさを味わってください。
エコ:トイレの電気
子供のころ、私の両親はトイレの電気をつけずに、トイレに入っていました。
”なぜ電気つけないんだ?”
ときくと
”もったいないから”
といっていました。
トイレくらい電気点けたっていいじゃないかと、当時思っていました。
今、当時の両親の年頃になって、自分も電気を点けずにトイレに入ります。
子供からどうして電気点けないのか聞かれるので、
”エコだ”と言っています。
でも自分でも電気をつけない本当の理由はよくわからないのです。
なにもわずかな時間、わざわざ電気を点けなくてもいいと思ったりしているんです。
時に電気を点けないで、トイレに入っていると、
ばたんと戸があいたりします。
”電気点けなくてもいいけど、鍵は閉めてよーーーーっ!!!”
正直、素直、謙虚
正直で、素直で、謙虚である!
これも小学校の教室に張られている標語のようです。
でも、意外に大事。
現在の生活習慣病では、信頼できる医師のアドバイスを素直に受け入れ、飲むべき薬はきちんと飲むことが一番よいと考えられています。
これは押し付けではなく、かなり重要なことなのです。
薬をきちんと飲まなかったり、自分自身で判断して服薬を中止したり、中断してまた再開したり、という患者さんの多くはなんとなく、医師側としてもしっくりこないことを”感じ”させます。
これは患者さんからの”語り”によって、ある種の言葉にならない”伝達”、”コミュニケーション”があるのでしょう。これは診療側が”感じる”のです。おそらく本人も無意識のうちに”感じて”いることだと思います。でも普段は”慣れている”ので、感じるべき”変化”と感じられないかもしれません。
その反対に、正直さ、謙虚さ、素直さもにじみ出てくることがあります。このときは"正直な方だ”と感じます。自然と当方も素直になります。
このようなことに惑われてはいけないのですが、時に迷ってしまうことがあります。プロとしてはまだまだなことなのですね。反省します。とはいえこれで診療の仕方に区別があるわけではないのですが。
でも、なんとなく感じるものはあるような気がします。
これってなんでしょう?
こんな”言葉にならない伝達”も”言葉としての伝達”も時々刻々変化します。人との関係の中で、よい関係を成長させ、膨らませていけると"うれしい”様な気がします。
特に仕事をしたり、コミュニティを作ったりしていくプロセスでは大事なことだと思います。
子供じゃないんだから
”食べすぎはいけませんね”
”甘いものばかりではいけませんね”
”間食を控えましょう”
・・・・・・・。
私は子供のころ、随分とわがままだったのです。そのためにたくさん食べ、甘いものばかりをほおばり、おやつばかりをたべていました。
いまこんなことを当方が言う状況になってしまったと思う今日この頃です。
糖尿病やメタボリック、肥満の治療に、こんな内容を言っていても良くならないなと思いました。
だれでもわかっていることですよね。 過食、間食などがいけないこと。
なんか、大人としての患者さんと医師の会話ってないのでしょうか。 子供じゃないんだから、なんて。
もっとも私の診療レベルがそれまでのことということですね。反省!!
風邪を引いて咳がひどく、痰がでているいるにひとに、
”タバコ吸っていますか?”
と聞くと
”吸っていました。スイマセン!?”
なんて、弁解だか誓いだか・・・。
”甘いもの、たべているんじゃないんですか?”
”ついつい、あまくなっちゃって。”
とか。
飲酒で太っている人に、
”アルコールは飲まないほうがいいんですが・・・”
”お酒を飲むと、いっしょに食べすぎちゃうんです”
”じゃあ、アルコールの代わりにウーロン茶でも2杯くらいのんでみては?”
”それじゃアルコールも食事もおいしくないのです”
わかっちゃいるけど、やめられない。 わかっちゃいるけどやせられない。
わざわざおいしくない思いなんか、したくないですね。
これ、いったいどうしたらいいでしょう。
人間迷っている間は努力するに決まったものだ、と昔の偉い人はいったようですが、効果がはっきりしないのに、努力し続けることはないと思ってしまいます。
最近、無理にやせてはいけない、と言っています。
いかに楽して減量するか。
これに尽きます。
つまりは続けられる習慣でないと、減量のためのプログラムは進みません。
行動療法のオペラントでは、目の前にぶら下げられたにんじんをとれるところまでいくと、そのにんじんはまた遠くにいってしまうのです。そのあとに残るのは果たしてよい結果なのか、それとも虚無感なのか。
いずれにしても子供ではない、大人としての治療関係を作り出していくよう努力いたす所存です。