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ツイッターNo2
次から次へと呟きが入ってくる・・・・・ツイッター これは居酒屋のおしゃべりや喫茶店の会話を静かに一人で耳を澄まして聞いているように思えます。 脈絡のないところから脈絡を作り出していくという点で画期的ですね。 ただし、時には居酒屋でおきるケンカがあるように、ツイッターでもおこるのでしょう。お行儀よくしていてもあらゆる声が聞こえてくるのですから、常に八方美人の内容ばかりとはかぎりませんし。 ちょっとツイッター調ですね。ツイッターを始めてみた
ツイッターって何?という感じですが。 ”つい言った”かとおもったら”twitter"っていうらしい。さえずりとかつぶやきとか。以前つぶやき○○○という人がいましたね。 ツイッターはおくが深いという。 インターネット始まって以来の大進歩という。 少し使ってみましょう。よくある話・・・。
良くある話です。 私のところでは実に様々な患者様がお見えです。 時に、 眠れないとおっしゃる。 時に睡眠のお薬を服用していただく。 すぐに、良くなる。 でもまた、 眠れないとおっしゃる。 睡眠の薬を変更してみる。 また眠れる。 でもすぐにまた、 眠れない、慣れてきたのか、 とおっしゃる・・・・。 これが永遠と続く。 これは私の薬の使い方、診療技術に問題があることもあるかもしれないが、それ以上にcomplaintがいくらでも続く。 不眠に限ったことではない。気分もそうである。 気分が優れない、 でお薬を処方する。 良くなる。 すぐに、気分がすぐれなくなる。 お薬を変えたり、増やしたりする。 また気分が良くなる。 また気分がすぐれなくなる・・・・。 これはどうなっているのかなぁと思うことがある。 気分が優れないことは確かに困っているのでありましょうが、時々、気分が優れないと訴えることが習慣化している場合もあるように見受けられるのです。 つねに満足できないような状態なのでしょうか。それとも満足すると落ち着かなくなるのでしょうか。 こういう心理状況というのは小児期の心理的状況がもしかしたら関係があるようにも思えるのです。google analytics
グーグル アナリティクスをつかって追跡しているけれど・・・。
なかなかブログというのは読んでもらえませんね。
まあ、それほど魅力のある話があるわけでもないし・・。
とはいえ、時々見ている方のために更新を続けます。
春の気持ち良い日ばかり続いたら・・・。
毎日毎日、来る日も来る日も春の気持ち良い日だったら・・・、と思ったことはありませんか。
実際そんなことになったことがないので、この気持は私にはいまだに理解できないことです。
毎日毎日、来る日も来る日も高級なお寿司ばかり食べていたら・・・、ということと同じでしょうか。
このような状況ができることはうらやましいことですが、もし本当にそればかりであったとしたら、いったいどんなであろう、なんて思ってしまいます。
毎日寿司しか食べてはいけない、とかなったら、以外に嫌になってしまうかもしれませんね。
毎日のどかな春の日ばかりだったらどうでしょう。
私が札幌にいたころ、夏は涼しくてよかったのですが、夏の夜の花火は震えてみていました。夏の大通公園のビヤガーデンなどでは震えながら飲んでいた記憶があります。
東京に帰ってくると、モーレツ熱いのですが、熱いだけに、秋の日差しのなごやかさが良かったりします。
冬の札幌はすさまじい寒さでしたが、春の訪れがたとえようもなく、気持ちの良いものでした。
変化があることはそれなりに良いことなのです。
良い時もあれば悪い時もある。悪い時もあれば良い時もある。
上を見てもきりがなく、下を見てもきりがない。
お薬の効果もそこそこであればいいのではないかと思っています。特にED改善薬は。
自由であるということ
”皇居は広くていいな。そんな広い庭がある家に住みたい” と、こともあろうに家族からこんなはなしがでる。 本当にしつけのなっていない家だ!!、とわれながら、自分のふがいなさに落胆する。 ”じゃ、皇居にすんでみたら”といってみた。 すると ”えっ?できるの?” そこでこう答えた。 ”皇居に住んで、3度3度の食事も全部ついているんだけど、ただひとつ自由にならないことがある” ”それは?” ”それは皇居の外に出てはいけない” ”いやだなぁ。そんなの。自由じゃないもん” ”でもそうやって暮らしている人がいるんだよね” ”・・・・・” 自由であることの楽しさと、それを守るために自分がするべきことがわかったのだろうか。 わからないですね。皇居に住んだことがないなら。自分も含めて。良いときも悪いときも一緒でもある。
悪いときもあれば、良いときもある。
実は良いときも悪いときも同じように、一緒でもあるなぁ、と。
薬というのはよい部分(求めている効果)と悪い部分(副作用)のごちゃ混ぜになったものです。多くの人では良い部分として作用する薬の量が悪い部分として作用する薬の量よりも少ないために、普通の量をのんでも、良い作用が出るはずなのですが、個人差やその他のさまざまな状況で悪い部分として作用する量が良い部分として作用する量と同じであったり、、またはほんのわずかな量でも悪く作用してしまうことがあるのですね。
もし薬を飲まない場合のことを考えると、これも良い部分と悪い部分が一緒におこるわけです。薬を飲まないので、薬に求めるよい効果が期待できないけれど、悪い部分としての副作用が出ないわけです。
頭痛が続くので、頭痛薬を飲んだら、頭痛はよくなったけれど、胃が痛くなった。再び頭痛がしたので、今度は薬を飲まなかったところ、頭痛は良くならなかったけれど、胃の痛いこともなかった、ということでしょうか。
こういうことって、実はあらゆる行為、判断はみな同じなのですよね。
”何かをする”ということはそれによって得られる期待されることもありますが、期待されないことも同時におこります。一方でその”何か”をしないとすると、期待されることもない代わりに、期待されないことも起きない。
たとえば宝くじ。宝くじを買うと、3億円当たるのではないかと期待されますが、はずれることもありますね。買わなければ3億円も当たらないかわりに、はずれを引くこともありませんね。
人の行為というのはみなそうなのだと思います。当たり前ですね。良いことをしたと思ったら、思わぬしっぺがえしを食らったり、一方で何もしないために、良いことをしたという満足もなければ、しっぺ返しも食らうことがない。
良いことと悪いこととは一緒なのだと。
困ったことの第1は自分にとっては時に一方だけが結果として起こりうる。
困ったことの第2は良いと思っていることと悪いと思っていることが共通なはずなのですが、少しあいまいになってきていることです。
困ったことの第3はその上、時間とともにその状況が刻々とかわることもある。
いつもながらの説明不足なのですが、医療の一部をになっていることが、ある意味で、自分の行為ばかりか、社会のあらゆる所作を考えされられてしまっている状況に陥ってしまっている自分がいることに気づいた次第です。
字:”刻み字”と崩し字
昨日だったか、新聞で崩し字が通用しない学生という話が載っていました。
私の書いた字はご他聞に漏れず、読めない字なのですが、それでも一応は習字10年の歴史からうまれた崩し字の成れの果てなのです。
ところがわが子も含めて、若い人たちは崩し字はほとんど書きません。
一画一画をきちんと書いています。ただしバランスと言うか、字の体裁を持たない字も多く見られます。
こんな字をなんていうのかわかりませんが、丁度彫刻刀で刻んだような字なので”刻み字”としましょう。
刻み字では文章は書けないですね。時間がかかりすぎてしまいます。
でも試験では間違いなし、になります。 試験対策用の字としては一画一画きちんと書いているので、間違いないわけです。
パソコン世代では表記される文字も正確でないことが多いし、ましてや崩し字は出てきませんね。
ここでふと考えたのですが、崩し字なんて教えてもらったり、筆記用具で書いてあるものを読まない限り、出てこないのですね。
これは、今までのコミュニケートの手段と異なる内容で言葉や意味が伝達されていることなのでしょう。
字の画と似た形だけでコミュニケートされているということでしょうか。”似た形”が今までは崩し字という伝統的に受け継がれた形だったが、最近は”刻み字”で、字の画が同じと言うに過ぎないもの、ある意味で正確なのに、伝統的でないもの、という形でつたわっていく。その刻み字の形は受け継がれていないので共有できにくい、個性的な形ということでしょうか。正確であるにも関わらず。
字を通して伝わるべき、字面だけでは伝わらないものもあるような、それが伝統的に連綿と伝わっていないということでしょうか。
なお先ほどの”字面”ですが、ジオモではなくジヅラと読みます。ジメンでもないです。
とはいえ古文書や江戸時代の手紙(時代劇で出てくる)、札(これも水戸黄門で”御用”とか”税金”とか書いてあるのだろう)はまったく読めない私ですから、崩し字や文体も時代を超えたものではなく、自分の生きている時代が長くなってきたということに過ぎないと言うことなのでしょう。
エコ:トイレの電気
子供のころ、私の両親はトイレの電気をつけずに、トイレに入っていました。
”なぜ電気つけないんだ?”
ときくと
”もったいないから”
といっていました。
トイレくらい電気点けたっていいじゃないかと、当時思っていました。
今、当時の両親の年頃になって、自分も電気を点けずにトイレに入ります。
子供からどうして電気点けないのか聞かれるので、
”エコだ”と言っています。
でも自分でも電気をつけない本当の理由はよくわからないのです。
なにもわずかな時間、わざわざ電気を点けなくてもいいと思ったりしているんです。
時に電気を点けないで、トイレに入っていると、
ばたんと戸があいたりします。
”電気点けなくてもいいけど、鍵は閉めてよーーーーっ!!!”
宣伝される”理想の”薬たち
過剰な宣伝の健康用品が多い。
”10日間で◎kgやせる”、とか”男性回復のほにゃららら”、”理想の美肌を”、などなど。
いずれも”そうだったらうれしい”という文句が並ぶ。
一方で先日は血液さらさらの腕輪でつかまった人もいた。
いったい宣伝文句のような状況が本当に存在するのかどうか。
以前ある種のきのこで癌が治るということで大きく取りざたされたことがある。
”ほにゃららら服用10人の証言!!!癌が治る!!!”など。
もうこれだけで癌にかかっている方は飲んでみたくなる。私も弱い人間だから、そのような状況になったときは恐らくその言葉におどらされてしまうだろう。
冷静に考えれば、そのような”神の薬”は存在しないことはわかるのだが、冷静さを欠いてしまっている状況では判断はできにくい。ましてや不安である場合は藁をもすがる気持ちなのだ。
効果を判定するためには常に4つの状況を評価することで初めて可能である。
つまり、ある薬を①使って良い効果、②使って悪い効果、③使わなくて良い効果、④使わなくて悪い効果。
これらの比率として①使って良い効果、④使わなくて悪い効果が多くならなければならない。
同時に②使って悪い効果、③使わなくて良い効果が少なくなければならない。
しかも結果がどうであれ、使う人たち(①と②)と使わない人たち(③と④)がほぼ同数で、同じような人たちを対象にしなければならない。
上記の状況をクリアしてはじめて、効果があるかないか判定できる。
”ほにゃららら10人の証言!!!”で10人に効果があった(①の状況)けれども、一方で100万人は使っても効果がなかった(②の状況)場合、”10人の証言!!!”は何になるのでしょう。。
私たちは”ある行為=すべての結果”とシンプルに理解したい。でも全体をみるとそうでもないことも多々あるのです。
いつもこのような冷静な判断ができるようになりたいとは思うが、弱みを握られたりすると、そんな判断ができにくくなりますね。 ましてや”理想の肌”とか、いつも追い求めているものであったりすると、すぐ飛びつくのが人情でしょう。人情に立ち向かうのは易いことではありません。
健康立国日本
年金問題でゆれるこのごろである。参議院議員選挙も自民の敗北でおわった。
さて、ニューヨークでは先日トランス脂肪酸の商用の使用を禁止した。イギリスでは全土で公共の場の禁煙を決定した。欧米のタバコ価格は1000円を越える。 海外の先進国では国民の健康を守るために具体的な施策が多くみられる(ただし健康保険については日本が最も優れていると思うがその制度も先行き危なっかしい)。
歴史的にアメリカでは国家事業として循環器病の撲滅に力を尽くしてきた。
ニューイングランドジャーナルオブメディスンという臨床医学最高峰の雑誌がある。その最近のエディトリアルでアメリカの循環器病減少に大きく寄与したものは①禁煙、②コレステロール、③血圧だそうである。 私としてはもうひとつ、食習慣の改善というのもあげたいところである。
翻ってわが国は健康日本21を掲げ、循環器病の発症率の低下をうったえている。
しかし現実には2001年ころに比べ、健康日本21が示した指標は改善するどころか、悪化している。
これは日本が政策目標としての"健康”をある意味で軽んじているからであろう。
とはいえ来年度から検診業務なども大幅に改定される。予防医学で禁煙も健康指導に取り上げられる。
その禁煙であるが、できればもう少し踏み込んで政策を実施していただけないだろうか。たとえば公共の場での禁煙、タバコの極端な値上げなどはどうであろう。
値上げについてはあまりにも極端ではあるがたばこは1本2000円(1箱40000円)とするのも想定してみてもよいだろう。そうすれば路上喫煙なんかもったいなくてできなくなる。そのうえ健康も守れる。
駐車違反は罰金が重くなって極端に減ったという(もっと重くしてしまうという考えもある)。本来公共のマナーとしてルールがあるわけだが、そのルールを軽んじてしまう点は致し方ないものなのだろうか。電車の中では携帯電話での会話を控えるように書かれているが、一部の方々は平気で携帯電話で話していることも多い(欧米では携帯電話の禁止はない。電車の中で話していても文句は言われない)。国情はいろいろではあろうけれど、決まりは決まりとしてもしくは国の文化としてマナーを大切にするのはよいことだろう。
禁煙場所の拡大やタバコの値上げは愛煙家にとっては厳しい時代だが、禁煙=健康を守る=病気にならない=皆に迷惑をかけない、とつながることを理解していただきたい。
わが国は何でもソフトランディングと思うかもしれないが、健康の問題はソフトランディングでは済まない。国が国民を守る気が本当にあるのなら、(欧米諸国のように)積極的な施策が大胆にできるはずである。なぜなら喫煙は”絶対”に良いことではないから。喫煙くらい”絶対に”悪いとわかっていながらこれほど公にまかりとおっているものもない。不思議である。
小さなリスクを回避していることで大きなリスクにぶちあたるのである。健康立国を目指して地に足の着いた堅実な政策決定とその実行を願う次第である。
余裕のない状況、時には仕方ないか。でも仕方ないとも言い切れない。
私が時々行くプールでの先日の出来事です。
恰幅のよい、あごひげを上品に生やした、いかにも社会的に成功しているという立派な紳士が受付で、20歳そこそこのプール受付の子に怒鳴りつけています。
”なんでこんなロッカーの番号を渡すんだ!隣がいるじゃないか!”と。 自分がもらったロッカー番号の隣にロッカーを使っている人がいたので、どうも”余裕”をもってロッカーを使うことができなかったのでしょう。
挙句の果てに、
係りに”馬鹿野郎!”呼ばわりです。
このプールのロッカーは上下2段になっていて、普通のロッカーなのです。300以上もあるので、そう簡単に満杯にはならないのですが、2段であるために、プールの受付はなるべく上の段のキーを渡してくれます。
それで隣のロッカーの人も良く出会いますし、時には自分も下の段になったりします。
それでも文句を言う人はないと思っていました。というより、そんなことで文句を言うことがあるかどうか、一瞬たりともかんがえたこともなかった。
係りの人もどうしていいかわからず、呆然としてました。
文句を言っていた紳士は立派な二輪車できていました。
あんなに文句を言うんなら、こんな融通の利かないプールにこなければいいのにと思います。自分の気に入るプールを見つけて、そこで気持ちよく泳げばいいのに・・・、と。
たまたま虫の居所がわるかったのでしょうか。 気分を悪くする事態が起こってから、プールに来たためにちょっと余裕がなかったのでしょう。この方の見た目からして、普段はきっとおおらかに人と接していらっしゃると思いたいです。日ごろは逆に、ストレスの多い状況で、多くに人たちをはげましていらっしゃる立場にいるのだと。
自分もゆとりがないときは、同じかなと。
いずれにしても年齢や、見かけなどに関わらず、こんな場面に出くわします。
追伸:
今朝の朝刊に、”傍若無人な「お客様」”と言う見出しで、コラムがあった。留学生が留学先に行って、金を払っているから、生活の規範を強要される必要はないという。電車のなかでのちょっとした迷惑ごとが起こった時に、写真を撮った撮らないでもめる・・・。
先日も”医の現場”で、患者さんたちの「院内暴力」について取り上げていた。
以前の私が聞いた話ですが、85歳になる高血圧のおじいさんが血圧の薬を飲まないので、”この薬を飲んでいれば大丈夫ですよ”といって、何とか説得して服薬していただいた。元気で過ごされていたが、あるとき、平衡感覚を崩して、転倒し、骨折。臥床となり、誤嚥を起こし、肺炎となって、亡くなられた。
おじいさんが亡くなったときに、家族が私たちに言った言葉が”この薬を飲んでいれば大丈夫だといっただろう!”と。”ふらついたのは血圧の薬が効きすぎたためだ。場合によっては訴えてやる。”
こんなとき、私たちはどのような対処があるのか、よくわからない。弁解する必要があるのかどうか。コミュニケーション不足なのだが・・・。
それにしてもこんなことも最近は良く耳にする。
先日あったことは、花粉症の薬が効かないといって、薬を返しに来て、その上、返金するように迫られたことである。今後このような事例が増えることであろう。
今後、効かないというだけで、返金だけでなく、場合によっては業務上の保障までしなければならないこともありうるかもしれない。
大人の約束
先日約束のない出会いというのは拘束がなくていいという話になりました。
将来はいずれ農村地帯に住んで、畑を耕して、近所の人たちと仲良くやって、時にはパーティでもして、時々呼ばれたりして・・・、なんて思ってみたこともあったのですが、結局付き合いが苦手な私にとってはそんなコミュニケーションが煩わしく感じられることも多いかな、なんて誠に勝手なことを考えてしまいます。
医師として種々お話をお聞きしていると、その人それぞれのさまざまな考えがあり、価値観があるので、私たちがとやかく言ってもどうしようもないという悲観的な見方さえしてしまうことも多いのです。
私自身は希望を持って生きているつもりですが、人間関係では希望だけでは済まない部分もあり、医師として仕事をしていて、特に最近そう思うようになりました。
さて将来は・・・、なんていったのは、いったいどんな付き合いが良いのか、と思ったのです。
河合隼雄先生の本で”大人の友情”という著書があります。そのなかに夏目漱石の”こころ”が引用されています。人間関係の本質を希望だけでは済まないものとして漱石は描いていると。
人間の本質というのは知らず知らずのうちにそのような状況を作ってしまうことなのだと思います。歌の文句ではないのですが、”知らず知らずのうちに”、そうなってしまう。 気がついてみると(気がつけばいいですが)、それは時に悲劇的でさえあります。ロミオとジュリエットですね。
浜田広介さんの本で”泣いた赤鬼”という本があります。
”知らず知らずのうちに”、赤鬼と青鬼の友情は赤鬼の期待とは別な方向にむかってしまう・・・。
日常でもそんな状況はいくらでもありますね。
では大人の付き合いは何がよいのか。
それは約束しないことかな、と思うようになりました。
そのときそのときの出会いや時間を大切にする・・・、ということだけです。
約束をするから裏切られる。期待するから裏切られる。
約束しないという約束、そんな約束ができるような仲間とのコミュニティーなんて・・・・、勝手すぎるでしょうか。
リスク回避
私は通勤の際、小学校近くを通るので、通学している小学生に会います。
当たり前ですが、その小学校の通学路には道路があり、そこそこ車が通り、信号があり、信号のところには横断歩道があります。
横断歩道の近くには歩道橋もあります。
朝の通学時間帯にはそこに緑のおばさん(と今でもそういうのでしょうか)も立っています。
この道路を渡らなければならない学童は全員が歩道橋を渡って通学するのです。
全員が歩道橋を渡る学校としての指導が徹底している点ですばらしいと思って毎日見ています。学童の安全を配慮した指導に感服します。
私たちの学童期は交通量も少なかったというべきかどうかはわかりませんが、それでも昭和40年代の経済成長で公害などもあった時代でした。
私の小学校の前には交通量のある道路があり、歩道橋もありました。
でもあまり歩道橋を使わなかったと思います。というよりも歩道橋を避けていました。階段を上るというはいやでしたね(今は好きですが)。
歩道橋ができる以前は信号のある横断歩道だったのですが、歩道橋ができて信号と横断歩道がなくなりました。
当時どうやってこの道路を渡ったかというと、別な信号つきの横断歩道を渡っていました。 校長先生から歩道橋を使えと聴いたこともあったような、なかったような・・・。少なくともほとんど使った記憶がありません。
その道路は横断歩道もあって信号もあるくらいですから、車は行きかっているし、たとえ信号が付いていてもそれなりに注意しないと渡れない道路でした。
リスクとベネフィット、それらを享受する人々、大きなリスクと小さなリスクなどなど・・・。ちょっと考えさせられてしまっています。
「わかる」技術
畑村さんの「わかる」技術を読んだ。
わかることには要素と校正、テンプレートがあるようだ。
その中で話の上手い、下手の話題があって、興味深かった。
上手い話し手は立体的なのだという。
話の論旨展開にもテンプレートがあるだろうが、テンプレートも立体的なのだろう。面白みというのはこのテンプレートに沿っていながら、「わかる」ことが可能なテンプレートの拡大というか、展開が不可欠と理解した。
この展開が自然にできる人もいれば、苦労してもできない人もいて、解析だけでは終わらない「なにか」が存在するように思える。
明日は明るい
先日勤務の帰りに電車に乗りました。
停車していた電車で座っていた若い男性の携帯電話が鳴りました。ホームにはすでに発車のチャイムが鳴っています。
その男性は電話に出るとすぐに席を立ち、電車から飛び降りて電話に出ました。
電車はすぐにドアが閉まり、発車しました。
その男性は携帯で2,3言話した後に電話を切りました。電車はゆっくりと彼の前を通過していきました。
彼は何のこともないように次の電車をまつ様子でした。
ただそれだけだったのですが、気持ちがすっきりしたというか、明日は明るいな、なんて思ったりしました。
10000
10000という数。
1週間は”分”であらわすと60(分)x24(時間)x7(日)=10080(分)。
1週間って1万分なんですね。
長いようでいて10000分なんて短いなぁ。
では10000日ってどれだけでしょう。
10000(日)÷365(日)=27.397・・・。
1万日というのは約27.4年なんですね。
人間の一生を考えると3万日くらいしかないということになります。
自分の残りの時間も10000日くらいしかないのかと思うと、どうしようもない気持ちになります。
小中学校時代の運動会は”運動オンチ”の自分には良い思い出ばかりではないけれど、リレー選手にもなったりで、楽しいこともありました。お祭りみたいなものですね。
そんなさまざまな思いのある運動会でしたが、良かれ悪しかれ、運動会が終わるときは達成感と後悔の入り混じった気持ちでした。
運動会がもっと長く続いてくれたら・・・。でも終わってしまう・・・。必ず終わってしまう・・・。
どうせ終わってしまう”お祭り”だから楽しく過ごそうなんて普通は思うのですが、もし運動会が一生に”1度”しかないとしたら、楽しんでいこうというだけでは済まないですね。勿論楽しんでいたいのですけれども。
”運動会”をもっと長く続かせたい・・・。楽しむ、楽しまないに関わらず。楽しんでいこうなんていうゆとりはない。”運動会”をもっと長く続かせたい・・・。 でも必ず終わってしまう。
そんな1度の私の”運動会”も後10000日くらいしかないのだな、と先日誕生日を迎えて、とりとめもなく思いました。
イメージ
私たちはたくさんの情報によってイメージが作られていますね。
現代社会では情報がありすぎてイメージが複雑になりすぎでぼやけてしまうことがあります。
たとえば地球というイメージ。
小学校のころは地球はボールのような球であると習います。中学くらいになると極までの半径と赤道までの半径が違っていることを教えられ、みかんのような”球”を思い浮かべます。
ところが実際の半径は地球の大きさからするとほとんど無視できるので、やはり球であると考えます。
海というイメージ。
地球表面の7割以上が海です。地球は水の惑星だなと思う。世界初の宇宙飛行士ガガーリンが最初に地球を見たとき”地球は青かった”といいました。それ以来私たちは地球は海の星:水の豊富な星だと思っています。
ところが海の深さ(最大深度で約10km)は地球の大きさ(半径約6400km)からするとほとんど無視できるほどの深さです。イメージしやすくすると約13cmの直径を持つ球に対して0.1mmの厚さに相当します。つまり地球の表面にわずかに張り付いている金箔程度のものなのです。
私たちのイメージというのはわかっているようでいて、真実とは程遠い状況が情報によっていくらでも作り出されるというとことなのだと思います。
新入生
新年度の始まりはいつ見てもいいものですね。フレッシュです。医局ではフレッシュマン(女性が多いにもかかわらず)といっていました。
先日私どもの大御所が学生との同窓会でお怒りになった。その時の原因は髪の毛です。最近はNHKでもぼさぼさの髪の毛でアナウンスをする方々がいますが、人前にでるような職業、ましてや脱衣した姿を拝見する職業にぼさぼさの髪とはイッタイどういうことだ!と。
髪の毛にかぎらず服装もですが、身だしなみはきちんとしていたいと思うのは年寄りだからでしょうか。現代ではレア物とか言って、わざわざ切れている服、穴のあいている服などがあり、一方では露出の多い服装だったり。また腰パンとかいってジーパンをちょー下げてはいたり。ファッションかもしれないけれど、なかなかついていけません。
少なくとも私自身はそのような服装を身に着けたりそんな着方することはないでしょう。髪の毛もできるだけそれなりにきちんとしておきたいと思います。髪の毛のあるうちは。
運動、水泳
さて最近は水泳をしています。水泳は週1回くらいなのですが、それで確実に体は締まりました。水泳を始める以前は体重85kg腹囲95cmでした。始めてまだ3ヶ月くらいですが、体重は4kg減り、81kgになりました。これでBMI25です。腹囲は92cmです。
これでもまだメタボリックシンドロームですね。私はメタボッチャンって呼んでいます。
水泳はつらいです。1km泳ぐのですが、クロールができないので平泳ぎです。低速コースの落ちこぼれです。100m泳ぐと最低5分は休む。心臓が強くないのでしょう。普通の脈拍数に戻るのに時間がかかります。本当は根性がなくてそれ以上泳ぐ”努力”をしない怠け者なのでしょう。
私よりもかなり遅い人でも連続で1kmくらい連続で泳ぐ人もいます。もっともその方にあわせると低速コースは超低速になりますが。実は私はその速度についていくのもやっとです。
プールに行くとわかりますが、コースには集団ができるのです。その集団の最後に泳ぎ始めて、50mターンして100mにつくころは集団の先頭になっています。どれくらい遅いかわかると思います。
私の水泳は以下のようです。100m泳いで、
”あぁ、もうやめよう。今日は300mで終わりだ”と思う。5分ー10分休んで、また100m泳ぐ。
”1kmは長いなぁ。今日は300mで終わりだ”と思って休む。また100m泳ぐ。
”きょうはこれで終わるのはちょっともったいない。もう少し泳げそうだ。あと100m泳いで終わろう”、って思って、休んだ後にまた100m泳ぐ。
”400m泳いだからもういいだろう。今日は後100mで終わり”と思って、また100mおよぐ。
”なんだ、500m泳いだじゃないか。もう100mで終わろう”なんて思って、また100m。
”ああ、あと400m泳ぐと1kmだけど、もう100mで終わっちゃおう”と思って、休んだ後に100m。
”あと300mじゃないか。泳げるかも。でも疲れたな。どうしよう”と思って、また100m。
”後200mか、何とかなるか”と思ってまた100m。休む。
”これで最後の100m”と思って、泳いで、やっと合計1km。
”あぁ、およいだな”と。処方時間80分です。
泳いだ後の”虚脱感”なのかよくわかりませんが、なんとなく気持ちよい。疲れているのに。これがやめられなくなるのでしょうか。
水泳は有酸素運動の代表ですが、私にとっては無酸素に限りなく近いと思います。おぼれそうに泳いでいるのでしょうね。
遠泳のクロールを教えてくれる方、いらしたらご連絡ください。
運動 歩行 運転
私は運動オンチです。体育という科目はよい成績であったことがありません。体が硬いせいでしょうか。体格からは考えられないとよく言われます。
では運動しないかというとそうでもない。
よく歩きます。通勤は約50分かけてクリニックに参ります。帰りは途中の誘惑が多すぎるので、電車またはバスです。これは勤務医時代から続けていて、約10年になります。でもなかなかやせませんでした。
最近は東京の色々なところに出かけます。3時間は最低歩きます。街の雰囲気とかわかって楽しいです。散歩の後に”さあ、ビール”とならないようにしています。
車は運転しません。なので車は持っていません。自転車はあります。お酒を飲むので飲酒運転をしないためといっていますが、実際は運転が下手なので、縦列駐車ができないためです。それと事故を起こすのが怖いからです。
先日免許の書き換えに都庁にいきました。”金 優良”です。運転していませんからね。これが優良と言うのも不思議ですが、この金は有料でした。書き換えは。
まだゴルフはやっていません。もうはじめるには遅いように思いますけれど・・・。とはいえ食わず嫌いはいけませんね。人生は1度ですからね。
でも人と競うスポーツは苦手です。
実際のところゴルフは運動(有酸素運動)に分類されていません。ゲームです。
今日はエプリルフールですが、このブログの内容はうそではありません。
平和な日々、健康な日々
そねクリニックは新宿にあり、世情の移り変わりには比較的敏感でいられます。最近のことですがドーナツ屋さんができて朝7時からやっているのです。しかも7時から開くというのに、既に並んでいる。
こんな幸せな空間や時間を誰が保証してくれたのかな、とほのぼのとした気分になります。
しかし世界に目をむけてみると、どうでしょう。なんともアンバランスな気持ちになります。
私たちの国だって今後どうなるかわかりません。
とはいえ、いまはドーナツ食べるために朝早く並べるんだから、並んじゃおう!ということでしょうか。これがウワサの○○○ドーナッツ!、おいしいらしいし!!、食べてみなけりゃ損しちゃう!って思いながら。
この寒いのに六本木ではいまだにアイスクリームでも長蛇の列がありますね。
意識することではないのですが、今のこんな無邪気な時間を気持ちの赴くままにすごせる・・・。
健康なんていうのもそんなもののように思えました。
残念ながら私はまだドーナツ屋さんにもアイスクリーム屋さんにも並んでいません。